大正時代に絶えた吉備の酒米「都(みやこ)」の復活物語

再度の大阪転勤を機に実家の岡山県総社市阿曽の実家に戻り、大阪への新幹線通勤の傍ら、まず「たたら」の修行に入った林正実は酒造りにも挑戦しました。

林の企ては現在栽培されなくなっている酒米を復活させ、さらに自分たちが酒造会社に入って酒造りまでを行うというものでした。今でこそこういった企画も各地で見受けられますが、平成8年(1996年)においては、まだ受けてくださる酒造会社探しに林は苦労したようです。
林はいくつかの酒造会社に断られた後、山手村(当時)の三宅酒造と交渉しました。三宅酒造の小澤慎常務(当時)と知人の地元の榮医師を自宅に招き、焼酎(伊佐美)を飲みながら小澤さんに林の企画への協力を要請しました。

当日、小澤さんからは「少し時間をください」との返事のみでしたが、3日後に林に電話があり、「手伝わせていただけますか」とのことで、林の酒造りプロジェクトは動き出しました。

酒米は、岡山県農業試験場(当時)から、今は栽培されていない「竹田早生」「日の出選」「都」の貴重な3種の種もみ数十粒ずつを提供いただきました。

平成9年6月、西阿曽の林正実の自宅前の休耕田で田植え(3種の種もみ)を盛大に行い、草取り、稲刈り、ハザ架け、脱穀まで全て無農薬・手作業で行いました。最終的に、酒造りの酒米には3種の種もみの中から大正時代に絶えた酒米「都」を使うことを林は決定しました。

平成10年には林が交渉した古代山城・鬼ノ城の麓の奥坂地区の5軒の農家と契約し、「都」の種もみを提供して田植を行いました。無農薬による栽培で、この秋には「都」60俵の収穫がありました。
林は平成11年1月にこの60俵の「都」を三宅酒造に持ち込み、林が別途募集した「酒造り会員」たちと蔵に入り、仕込みまでを自分たちで行い、約2600リットルの酒を得た。林はこの酒を「鬼鐵」と名付け、三宅酒造から販売した。

林正実はその翌年からはこの大正時代に絶えた吉備の酒米「都」の栽培、そして林が募集した「酒造り会員」の組織の運営を三宅酒造と小澤さんに全て任せています。その理由を林ははっきりとは言いませんが、林の企画に協賛してくれた三宅酒造の経営を、少しでも応援したいという思いがあったようです。