たたら製鉄と阿曽の鋳物


阿曽の鋳物の再興と林正実

アートディレクターとして、また阿曽(岡山県総社市)の村下(むらげ)として古代たたら製鉄の操業指導を各地で行う鬼ノ城塾塾長の林正実は、絶えた阿曽の鋳物の復興を目的として、勤務した会社退職の翌月の平成20年(2008年)1月から鋳物の修行に入りました。
林は県内で唯一残っていた倉敷市内の「手込め」を行う小規模な鋳造会社に入り、出会った鋳物師の林秀弘さんから多くのことを学んだと言います。〔まず阿曽で最後の鋳造所として細々と鋳物業を行っていた林亨さんに指導をお願いしたが、残念だがもう廃業した。いま設備も運び出していると言われ〕

古来、阿曽の鋳物師は吉備津神社との関係が深く、境内にある御釜殿の鳴釜神事に使われる釜の鋳替え(約60年に一回)を連綿と続けてきたが、前回の昭和の鋳替えは阿曽の鋳物師が行うことはできなかった。林は阿曽の鋳物師が、次回の釜の鋳替え(令和30年頃に行われるか)を再び担えるように、阿曽の鋳物の再興をすすめる。
林正実はこの「阿曽の鋳物の復興プロジェクト」のことを、吉備津神社の蔵に残っている江戸時代以降の鳴釜神事に使われた釜の調査を行った際に、前の宮司の藤井さんに申し上げたところ、「それは阿曽の鋳物師の特権ですから」とのお言葉をいただいたと喜んでいました。阿曽の鋳物師と吉備津神社との間には「阿曽の鋳物師は60年に1回、釜の鋳替えを行う」約定が取り交わされています。

〔阿曽(奥坂)のたたら道〕 また林正実は阿曽の鋳物にも関連すると思われる奥坂地区の山中の「たたら道」についても、調査を行ってきました。
地元奥坂地区の古老が山の中に残る古道のことを覚えていて、林は平成8年(1996年)頃から山中を踏査し、石畳の敷かれた言い伝え通りの「たたら道」を見つけ、調査を続けてきました。「敷石のたたら道」は奥坂の後原から古代山城・鬼ノ城の東端まで確認できました。ただ古老たちの話から、そして古書を調べても、この道がいつ頃から使われたか、何を目的としたかなどは諸説あり、まだはっきりしていないと林は言います。「たたら」と「鋳物」の両方の技術を体得した林正実の今後の調査を待ちたい。林が撮った「たたら道」の写真も何枚か最後に掲載させていただきます。